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あいちのムナカタ

2011年06月25日

 青森出身の棟方志功、愛知には縁もゆかりもなかったのでしょうか?いえいえ、そんなことはありません。愛知県は新城市、鳳来寺山の山頂のほど近くにたたずむ鳳来寺、このお寺の梵鐘は、棟方のデザインによるものなのです。

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▲遠くに見えているのが鐘楼です。

 

 


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鳳来寺は、愛知県の県鳥で「声の仏法僧」の異名を持つコノハズクで有名な名刹で、ご本尊は薬師如来。梵鐘には、その薬師如来の脇侍である日光・月光菩薩と、薬師如来を守る十二神将の姿が彫られています。

 鐘楼は普段は一般公開していません(毎年暮れの「鳳来寺除夜の鐘つき」のときだけ、上がることができるそうです)が、今回は棟方展の調査として特別にお願いをして、鐘を間近で見せていただきました。

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▲鐘楼。普段は扉が閉まっています。

 

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▲ご本尊の薬師如来を表す梵字。

 

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▲十二神将から二将をアップ。棟方らしい描写です。

 

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▲ちゃんと志功の名前も彫られています。

 

そしてもう一つ、棟方と愛知との大切なつながりがあります。

 棟方は1936年に、初めての試みとして板画で絵巻を制作しています。《大和し美し》というこの絵巻作品は、佐藤一英(いちえい)という詩人による同題の詩を彫ったものです。棟方は佐藤の詩に惚れ込んで板画化の了解を得て、国画会展に出品、それをきっかけに柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司といった民藝運動の主要なメンバーたちと知り合うことになります。

 そんな棟方の出世作とも言える《大和し美し》の詩を著した佐藤一英は、実は愛知県一宮市の出身なのです。さすがに梵鐘はお借りして展示することはできませんが、こちらの《大和し美し》は出品されますので、お楽しみに。

 「棟方志功 祈りと旅」展は7月9日から。
 

(K.S.)

 

棟方志功最大の作品

2011年06月24日

 緊急開催することとなりました7月9日オープンの「棟方志功 祈りと旅」展に向けて、急ピッチで準備を進めています。この展覧会はすでに全国を巡回中で、当初は福岡県立美術館が最後の巡回館となるはずだったのですが、その後当館に巡回することが決定しました。そういった経緯もあって、福岡県立美術館で、作品の大きさや展示の注意点などを調査してきました。

 この展覧会の最大の見所は、なんといっても全長約26mにも及ぶ棟方最大の作品《大世界の柵》です。数字だと実感が湧かないかもしれませんが、例えば、昨年のあいちトリエンナーレ2010で愛知県美術館会場に展示された蔡國強《美人魚》、あの作品が長さ16mでした。そして、この《大世界の柵》に使われた版木は72枚の裏表で、合計なんと144!

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▲福岡県立美術館での《大世界の柵》展示の一部分。全貌は…会場でのお楽しみ。。

 

 「版画」と聞くと一般的には両手で持てるサイズを想像しがちですが、棟方の作品には《大世界の柵》以外にも非常に大きなものが多く、驚かされます。「版画」に何か小さいイメージが付きまとう理由の一つにはそれが何枚も刷られる複製品だという事実があるかもしれません。棟方は、このような「版画」にまとわりつく「複製」という印象を減じようとして、自らの版画作品を「板画」と呼んでいました。

 さて、《大世界の柵》ですが、この規模になると、展示室のなかでも展示できる場所が限られてきます。右隻左隻を分けてL字に展示することもできるのですが、折角ならやはり並べた状態で「大世界」を体感していただくのが一番だと思い、展示室の図面と日々格闘しています。どのように展示されるか、楽しみにしていてくださいね。

 

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 ところで、この展覧会は「東北復興支援特別企画」という位置づけで開催されます。その支援のひとつとして、愛知県に避難された被災者の方々に、この展覧会を無料でご覧いただくことにしました。具体的には、愛知県被災者支援センターを通じて招待券を各戸にお配りし、ご覧いただく形になります。お配りする招待券やチラシの準備ができましたので、さっそく支援センターに届けてきました。


(K.S.)

 東日本大震災から3ヶ月半が過ぎた今、あらためて被災された方々に、心からのお悔やみとお見舞いを申し上げますとともに、被災地の復興を心よりお祈り申し上げます。

 23年度第1回目の企画展として4月29日から6月12日まで麻生三郎展を開催いたしました。この企画展にあわせて、所蔵作品展ではこの度の大震災で被災された方々に思いをよせ、その心情に寄り添わせていただくことを願って、「祈りと鎮魂」をテーマにしたささやかな展示を行いました。

 あわせて展示室内に文化財レスキューの支援のための義援金箱も設置し、来館者の皆様にご協力をお願いいたしました。その結果、175,406円という多額の義援金をお寄せいただきました。この義援金は6月15日に郵便局から「愛知県美術館来館者一同」として全国美術館会議に送金させていただきました。皆様からのご協力に心から感謝申し上げます。

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 7月9日(土)からは東北復興支援特別企画として「棟方志功 祈りと旅」展を開催いたします。この展覧会では、支援のための絵葉書あるいはポスターを販売するとともに、東北地方の美術館グッズ、工芸品などを販売し、その収益金を義援金として被災地へ、また、文化財レスキュー活動にも役立てさせていただこうと思っています。

 一人でも多くの方々にご来館いただき、被災地東北へ思いを寄せていただくとともに、ご協力をいただければと願っています。

愛知県美術館長
村田 眞宏

皆さんこんにちは。
今年の梅雨入りは例年に比べ早かったようですが(沖縄ではすでに梅雨明けが宣言されたとのこと!)、こんな季節のお出かけにこそ美術館がおすすめです。
快適な展示室でゆっくりと作品をお楽しみいただければ、鬱陶しいお天気も一時忘れて過ごすことができるのではないでしょうか。
ただいま開催中の「麻生三郎」展は今週日曜日までとなります。広々とした展示室で、作風の変遷をじっくりと味わうことができるとご好評いただいている麻生展。ぜひお見逃しのないように。

 

さて、去る3月11日、東日本では、私たちの多くが経験したことのない大震災にみまわれました。
東北を中心とする地域の人々は家族や家を失い、一瞬にして平穏な生活を奪われ、その被害の甚大さは日本だけでなく世界中の人々に大きな衝撃を与えました。
これらの地域の人々が受けた物質的・精神的な被害は、まさに想像を絶するとしか言いようがありませんが、同時にこの地域で守られてきた数々の文化財も、大変大きな被害を被りました。
そこで、このたび文化庁により「東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援事業」(通称文化財レスキュー事業)が組織され、震災の被害にあった文化財を救出する作業が始まりました。
さてこの文化財レスキューには、第1陣、第2陣とつづけて、当館からも2名の学芸員が派遣されました。(2011年6月9日現在)
そこで、第1陣に参加した大島学芸員のルポ(中日新聞に掲載)をここにご紹介します。

 

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動き出した文化財レスキュー

 

 3月11日の東日本大震災以来、私はどこか後ろめたい気持ちにつきまとわれていた。被災した人々のことを案ずれば当然胸が痛むが、しかし、だからといって自分に何ができようか。そう思うと、ますます心苦しくなった。
 そんな中、文化庁の要請のもと組織された「東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援事業(文化財レスキュー事業)」の委員会に全国美術館会議(全美)が加わることになり、被災美術品に対するレスキュー隊を全美が組織することになった。これは美術館人としてぜひ参加したいと思い、すぐに志願した。
 全美文化財レスキュー隊第1陣には、国立西洋美術館、静岡県立美術館、愛知県美術館、和歌山県立近代美術館、兵庫県立美術館の5館から計6人の学芸員が集まった。派遣先は、宮城県石巻市の石巻文化センター。任務は、被災後、手を付けられないままとなっている同センターの収蔵庫内の美術品約200点を、現場で1点1点写真記録後、応急処置を施して梱包し、宮城県美術館に移送保管するというものだった。
 石巻市は町自体が津波の大きな被害を受けたため、センターのスタッフは市職員として市民のケアに当たっており、自分たちでそれら被災美術品の対応をすることはほとんど不可能な状態であった。かくして、私たち全美のレスキュー隊の出番となったわけである。
 石巻文化センターの美術品収蔵庫は津波で扉が一部破壊され、一度天井まで水につかってしまっていた。4月27日の朝に私たちが現場に到着した時には、水は引いていたものの、高湿度の中、カビによる被害が広がり始めていた。また、追い討ちを掛けたのが、付近の製紙工場から収蔵庫内に流れ込んだ大量のパルプである。それが作品のあちこちに付着して、まだぬれているものは腐りだし、あるいは、乾き始めたものは作品に固くこびり付きだしていた。

 損傷の種類は他にもいくつかあるが、とにかくそれらの被災美術品は、そのまま放置し続ければ、修復不可能なところまで状態が悪化してしまう危険性もあった。かくして、それらが専門の修復家による本格的な修復を受ける時が来るまで、損傷の進行をできるだけ抑える必要があった。それで私たちは、物資の面でも時間的にも限られた条件下で、適切と判断される程度、付着物の除去や絵の具層の剥落防止などの応急処置を現場でひとまず行った。


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▲駐車場に彫刻類を運び出し、応急処置をするレスキュー隊=宮城県石巻市の石巻文化センターで(筆者撮影)

 

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▲収蔵庫前で保護のため絵画を梱包するレスキュー隊=宮城県石巻市の石巻文化センターで(筆者撮影)


 そうして全美レスキュー隊第1陣は、29日までに石巻文化センターから美術品約200点(および、書簡などの資料数百点)を救出し、宮城県美術館に移送保管した。それらは現在、同館で全美レスキュー隊第2陣によって、入念な追加の応急処置を施されている最中である。貴重な文化財を守り、後代にきちんと残し伝えるため、今後も石巻文化センターの被災美術品に対する全美のレスキュー事業には、継続的に人材が送り込まれる予定と聞いている。

 他の深刻な被災地同様、石巻では今はまだ生活に直接かかわる問題が最優先であると思われるが、石巻文化センターの文化財は、あの地域が本格的に復興しようとする際、市民の大きな精神的よりどころとなるはずである。遠からず来るその時のために、美術館の世界に生きる私たちは芸術というものの持つ力を信じて、レスキュー事業に取り組んでいる。
 あれらの美術品や資料が本格的な修復を経て、晴れて再び石巻文化センターで展示されることになったら、その祝福すべき光景を自分の目で見るべく、もう一度石巻を訪ねようと思っている。その日が一日も早く来ることを切に願っている。
(愛知県美術館 学芸員 大島徹也)
 

【中日新聞5月20日(金)夕刊より転載。(当ブログ転載にあたって写真を1点[上]追加しました。)】

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文化財といった、人々の生命に直結しないものへの被害に思いをめぐらすことは、震災直後にはなかなか困難なことかもしれません。しかし、ある地域の文化的な財産は、その地域の人々のアイデンティティとも直結しているはずですし、大島学芸員の言うように、そのような地域の宝物が復興の過程で重要な役割を果たすはずだ、と私も思います。まずは国の財産として保護するべきという考え方もありますが、人々が故郷での生活を取り戻していくことと決して無縁ではない事業だと言えるのではないでしょうか。今後文化財レスキューの事業が続いていくとすれば、愛知県美術館としてさまざまな形でこの事業に協力していきたいと考えています。

なお、当館では現在、文化財レスキュー事業を支援するため、義援金箱を設置しております。 
皆さまのご協力をお願い申し上げます。
(S.N.)

 

 

  

 

 愛知県美術館はこの秋、「生誕100年  ジャクソン・ポロック展」を開催します(11月11日 - 来年1月22日)。それに関連してお届けしているこの「ポロックの足跡を訪ねて」シリーズ、4回目となる今回はアリゾナです。

 

 

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▲ アリゾナの荒野(2004年撮影)。この写真を撮影した時は残念ながら曇天でしたが、アリゾナは、晴天時には赤い大地と青い空のコントラストがとても美しいです。

 

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▲ アリゾナの道路(2004年撮影)

 

 ポロックは幼少期、アリゾナと深い縁がありました。1913年(1歳)から1917年(5歳)の間、アリゾナの州都フェニックスに住んでいましたし、1923年(11歳)から1924年(12歳)にかけてはフェニックス近郊に住んでいました。また1927年(15歳)には、グランド・キャニオン(アリゾナ州)のノース・リム(北側の縁)近辺の測量調査団に、兄サンフォードと一緒に参加しています。(のちにアルコール中毒になり、最後は飲酒運転による自動車事故で亡くなってしまうポロックですが、酒を覚えたのはこの時でした。)

 

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▲ 日没時のグランド・キャニオン(ノース・リム、2004年撮影)

 

 1944年(32歳)、ポロックはある芸術雑誌の誌上アンケートに答えて、次のように言っています。「私は西部に対してはっきりした感覚を持っている。すなわち、その地の広大な水平性である」。ここでは「アリゾナ」とは明言されていませんが、ポロックが幼少期に転々とした西部のそれぞれの土地の特徴や、その時の彼の年齢などを考えると、そこで彼が言う「広大な水平性」の感覚は、アリゾナの体験と深く結びついているように思われます。また、グランド・キャニオンの圧倒的なスケール感も、後々のポロックの仕事に影響を及ぼしているのではないかとしばしば言われています。

 

 

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▲ トント・ナショナル・モニュメント(アリゾナ州トント、2004年撮影)。中央の崖の凹み部分に先住民(サラド人)の住居跡があります。

 

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▲ 上記の住居の内部(2004年撮影)。壁、窓、階段などの存在がはっきり確認できます。

 

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▲ 先住民(ホホカム人)の球技場(プエブロ・グランデ博物館、アリゾナ州フェニックス、2004年撮影)。ホホカムの球技がどんな種類やルールのものだったかは、残念ながら不明です。

 

 アリゾナ州には、アメリカ先住民の遺跡が今もたくさん残っています。少年時代、ポロックは兄たちと一緒にそれらの遺跡をいくつも探検しています。上記の1944年のアンケートの中でポロックは、「私はかねがね、アメリカンインディアン美術の造形的質には非常に感銘を受けてきた。インディアンは適切なイメージを手に入れるその能力において、また絵画的主題を構成するものについてのその理解力において、真の画家のアプローチを持っている。彼らの色彩は本質的に西部のものだが、彼らのヴィジョンは、あらゆる真正の芸術が有する根本的な普遍性を持っている」とも言っていますが、すでに少年時代にポロックは、こんなふうに先住民文化に深く接触していたのでした。

 

 

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▲ 制作中のジャクソン・ポロック、1950年
Photograph by Hans Namuth © Hans Namuth Ltd.

 

 アリゾナ州北東部にはアメリカ先住民・ナバホ族の指定居住地が大きく広がっています。ナバホ族といえば砂絵がよく知られていますが、色砂を指の先から流し落として地面に絵を描いていくその独特な制作の仕方(参考画像=http://www.artsology.com/navajo_sand_painting.php)は、ポロックに大きな影響を与えました。
 ただし、ナバホの砂絵は本来、純粋な芸術作品として制作されるものではありません。それは、病人の治癒のための儀式の一環として祈祷師(シャーマン)によって制作され、最後には跡形もなくすべて消されてしまうものです。
 あるポロックの伝記の作者によると、ポロックは少年時代、先住民の居住地で砂絵の制作を何度か見たことがあるそうです。しかしながら、これには懐疑的な向きもあります。というのは、ナバホの砂絵の儀式は、デモンストレーション等でなければ、原則的には関係者以外立ち入り禁止の秘儀だからです。秘儀だから少年時代のポロックが砂絵の儀式を見たはずがない、と単純に言うこともまたできないのですが、ともかく、私が2004年にナバホの指定居住地を訪ねた際、本物の砂絵の儀式を見たいと、出会った何人かのナバホ族の人にツテもなく聞いて回ったところ、やはり「秘儀だから無理」とのことでした。

 

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▲ アリゾナで買ったお土産品の砂絵

 

 しかたがないので、砂絵の儀式のデモDVDと、お土産用のアート作品としての砂絵を買ってアリゾナをあとにした次第です。いつか本物の砂絵の儀式を体験してみたいと今でも思っています。  

(T.O.)