2012年04月123456789101112131415161718192021222324252627282930

木村定三コレクションの「銅鐸」について

2012年04月04日

「うつし、うつくし」展のなかで展示されていた銅鐸(木村定三コレクション)をご記憶の方もいらっしゃると思います。この銅鐸には興味深い事実があります。展覧会は終了しましたが、ここでご紹介いたします。

 

ご承知のとおり、銅鐸は弥生時代に特有の金属器で、近畿を中心に、中部地方以西に分布することが知られています。そして、祭祀の時などに、特殊な目的で用いられたものと考えられています。もともとは音を鳴らすための鐘としての機能をもつものだ

ったようで、初期のものは小型で、上部の吊り手部分の「鈕(ちゅう)」にひもを通して吊し、本体部分「身(しん)」の内側に「舌(ぜつ)」を付けて、鈴のように鳴らしたものと推測されています。

さらに、銅鐸は集落跡などの遺跡発掘ではほとんど確認されることはありません。工事などの際に偶然発見されることが多く、これも大きな謎となってきました。

銅鐸は、やがて本来の鳴らすという機能を失っていき、時代を経るに従い装飾的で大型のものが作られるようになっていったとされています。

 

木村定三コレクションの銅鐸は「四区袈裟襷文銅鐸(よんくけさだすきもんどうたく)」という型式です。編年的には第三段階「扁平鈕式(へんぺいちゅうしき)」と呼ばれるもので、弥生時代の中期、紀元前1世紀頃に制作されたものと推定されています。銅鐸の時代を推定する編年研究のポイントは、「鈕」の形態の変化を一つの指標としていて、「扁平鈕式」というのは、もとは「紐」の断面が菱形だったのが、扁平になった段階のものという意味です。

銅鐸1.jpg

↑ 木村定三コレクションの《四区袈裟襷文銅鐸(よんくけさだすきもんどうたく)》

 

ところでこの銅鐸を納めた箱には「唐物喚鐘花瓶(からものかんしょうかびん)」と書いた紙が貼られています。つまり、この銅鐸は、ある時期、花瓶として使われていたと言うことです。

 

細部を観察してみましょう。

まず、上部の平らな部分、銅鐸としては「舞(まい)」と呼ばれるところですが、ここが大きく切り取られていることが判ります。もともと、この部分は銅鐸を鋳造するときの技術的な事情から、小さな穴があることが多いのですが、ここでは明確に手が加えられています。また、よく観察すると「鈕」の内縁も少し削り取られていて、花が生けやすいように改造されています。

銅鐸2.jpg

↑ 花を生けるため「舞(まい)」の部分が大きく切り取られています。

 

その他にも花瓶としての改造部分はあります。背面(本来銅鐸には表裏はないので、花瓶としての裏側という意味)には、これを懸けるための金具が取り付けられています。さらに、銅鐸の「身」の部分にもともとあった穴はふさがれて、水が漏れ出さないように手が加えられ、もちろん、内部には、花瓶として使えるよう底板が取り付けられています。

つまり、この銅鐸は、弥生時代の考古資料であるばかりか、茶の湯などで用いられた「掛花生(かけはないけ)」でもあったわけです。

銅鐸3.jpg

↑ 背面に金具が取り付けられています。金具の両側には穴が塞がれた跡が見えます。

 

銅鐸4.jpg

↑ 花瓶として使えるように、底板が取り付けられています。

 

このような銅鐸の道具などへの転用については、難波洋三氏が「花入などに転用された銅鐸」と題して、その概要を報告されています(『京都国立博物館だより』149号、2006年)。

それによれば2006年段階で、難波氏が何らかの転用を把握していたものが43個あり、実際には50個以上あるのでは、と推定されています。それは出土総数の一割以上になるとのことです。そして、このような転用は、その多くが花生であるということ、そして、それは江戸時代を中心に行われていたということを紹介されています。

 

銅鐸に限らず、長く伝世したものには、本来とは違った目的で用いられたり、そのために手が加えられたりすることがあります。この銅鐸は、その典型的なものということができます。

(M.M.)