2013年07月12345678910111213141516171819202122232425262728293031

プーシキン美術館展を振り返って(1)

2013年07月07日

 12万人という多くの来場者を迎え、愛知県美術館でのプーシキン美術館は閉幕しました。展覧会最終日の翌週からスタートした撤去作業も無事終了し、今は空っぽになった白い展示室が、次の展覧会の準備を待っています。

 これまで展覧会を担当すると、貴重な作品を預かる責任やスムースな運営への配慮といったことに気を取られがちで、展覧会が終了してようやくほっとできる、ということが多かったように思います。しかし今回はなぜか、このブログを書きながら、スタッフの仲間とともに行った準備やイベントが思い出され、ちょっとさびしい気持ちと、この展覧会を担当できて良かったという気持ちで一杯になりました。延期を経てようやく開催することができたこの展覧会への想いは、関係者にとっては特に強かったのかもしれません。

pushkin1-001.jpg
△プーシキン展最終日、多くの来場者でにぎわいました!

 展覧会が無事開催されるには、多くの人々の力が必要となります。そして、その過程は大きく二つの段階に分かれます。第一段階は、展覧会の全体を構成すること。第二段階は、その展覧会を各巡回会場で運営することです。まずは第一段階の展覧会全体の構成から、このプーシキン展の成り立ちについて書いてみたいと思います。

 プーシキン美術館展の場合、まず朝日新聞社東京本社によるこの展覧会企画を、横浜美術館、神戸市立博物館、愛知県美術館という3会場で受けることが決定したところから始まりました。作品の選定は、プーシキン美術館のセレクトをもとに、日本側からもリクエストを出しながら調整されました。

 プーシキンと日本の会場との間の連絡、作品の輸送などあらゆる運営は、全て東京の朝日新聞文化事業部の担当グループの方々が行いました。またショップのグッズ展開やプレスへの対応、著作権の処理、広報なども文化事業部の方々の仕事です。

 一方、各会場の担当学芸員は、展覧会の中身に関わる仕事を中心に行います。展示の構成、カタログや解説パネルの内容を決めたり、音声ガイドをチェックしたりします。こういった海外の美術館のコレクション展の場合、日本会場の学芸員が現地まで作品を事前に調査しにいくことはほとんどありませんが、今回の展覧会では、準備段階で横浜・神戸の学芸員さんとともに、モスクワとサンクトペテルブルクを訪ね、出品作の実見調査をさせていただくという貴重な機会に恵まれました。

 そして、2011年の開催予定直前、朝日新聞のスタッフも学芸員もカタログの校正や様々な準備に追われ、深夜や早朝にメールが飛び交うこともしばしばという状況が続いていました。展覧会開幕への大きな期待の中、スタッフの誰もが必死に準備を行い、モスクワでも作品が順調に梱包され、あとは搬出を待つだけ、という報告を受けていた最中に、東日本大震災と原発事故が発生したのです。

 当時、巡回の第二会場だった当館では、すでにポスターやチラシのデザインもほぼ確定し、後は印刷するだけ、という状況でしたが、とにかく一旦全ての工程をストップさせ、展覧会の開催の是非について、ロシア側の判断を待つことになりました。結果は周知のとおり、余震もおさまらない状況下で、ロシアの第一級の国有作品を輸送・展示するわけにはいかない、との決定が下りました。第一会場であった横浜美術館での開催中止が朝日新聞を通して公表され、その後朝日新聞のスタッフの方々は数週間ほぼ徹夜で様々な残務処理にあたったそうです。

 一方、展覧会の中止が告げられた当館では、空いてしまった会期をどうするかという相談がすぐに始められました。幸いにも、同じく朝日新聞社企画による、すでに他館で巡回が始まっていた「棟方志功展」を、予定の会期を延長して当館にも巡回できないか、という提案をいただき、結果的には有意義な展覧会を開催することができました。

 その間にも、プーシキン美術館との交渉は続けられ、展覧会の中止ではなく、なんとか2年の延期ということになりました。そして、横浜・神戸・愛知の各会場の会期の調整を行った結果、なんと当館が巡回の第一会場となってしまいます!成り行きとはいえ、この予想しなかった事態に、誰もが内心冷や汗をかいたと思われます(笑)

(冷や汗の理由については、次回の記事で・・・「プーシキン美術館展を振り返って(2)」に続きます!)
(MRM)