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デュフィ展は現在あべのハルカス美術館に巡回中。そして当館でも約1ヶ月後に始まるこの展覧会のために、色んな準備が進んでいます。かわいいサポーターもがんばってくれています。FacebookTwitterに頻繁に登場していますので、ぜひ会いに来てくださいね。

さて、前回の記事では、デュフィ展をやろう、と決定したところまでを書いてみました。今回は、展覧会をどんな内容にするか考えたり、その実現のためにフランスの美術館と行ったやり取りについてお伝えしようと思います。

デュフィという画家は日本ではとても人気があり、過去に何度も展覧会が開催されています。その中で特に規模が大きな展覧会としては、「デュフィ回顧展」(国立西洋美術館・京都国立近代美術館、1967-68年)、「ラウル・デュフィ展 海と音楽―そしてパリの情景」(Bunkamura ザ・ミュージアム他、1994年)、「ポンピドーセンター所蔵 デュフィ展」(宇都宮美術館他、2001年)という3つの展覧会が挙げられます。一つ目の展覧会は日本で初となるデュフィの展覧会であり、フランスの研究者が監修となって行われた規模の大きなものでした。2つ目の展覧会は音楽や海、パリの街を描いた作品を中心に構成され、3つの目の展覧会はポンピドゥー・センターのコレクションによる展覧会でした。

これらの過去の展覧会のカタログを眺めながら、今回の展覧会でどんな新しいデュフィ像が示せるだろうか…と考えていたところ、ポンピドゥー・センターのコレクション展に掲載されていた「デュフィ、『線表現』豆辞典 アラベスクからジグザグまで」(青木理著)に目が止まりました。誰もがデュフィの鮮やかな色彩にばかり目を奪われ、「色彩の魔術師」などという呼称も定着しているのに、この豆辞典はデュフィの線描の多様性に目を向けた非常に稀な興味深い資料でした。この辞典でまとめられているようにデュフィの線描は多様で表現豊かでありながら、その部分には今まであまり目を向けられていないことに気づかされ、この点を展覧会の一つの核にしようと思いました。
 

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↑デュフィ「線表現」豆辞典 デュフィの線描の種類を23項目に分けて解説した、マニアックかつものすごく面白い内容!展覧会自体は油彩画のみで構成されていたので、この豆辞典でまとめられたデュフィの線描の魅力は今期の展覧会でぜひチェック!
 

こうして、展覧会の基本構造としては、前回のブログでも触れたように、デュフィの特に初期の制作過程がきちんと示せることと、デュフィの線の表現を掘り下げることを決めました。

上の2点を踏まえて、次にドリームリストを作成しました。この作業が展覧会の準備の中で一番楽しい!という学芸員もいるほどで、まずは自分勝手に制限もなく展示したい好きな作品を選びながら、リストを作成していくわけです。このとき参考にしたのは、2008年にパリ市立近代美術館で開催されたデュフィの大々的な回顧展です。世界中からデュフィの主な作品がこの展覧会に集結し、余談ですが、実は当館の《サンタドレスの浜辺》も出品されたのでした!この大規模な展覧会はパリでかなりの人気を博し、美術館前には(普段並ぶことが大嫌いな!?)パリジャン達が長い列を作ったそうです。


本国での過去最大となる展覧会ほどではないですが、最大限の希望を詰め込んだ企画書とドリームリストが出来上がると、いざ!海外の美術館との交渉のスタートです。デュフィの作品は、デュフィ夫人の寄贈によりパリ国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)に多数まとまってコレクションされており、ドリームリストでもこのコレクションの中から作品が多くセレクトされていました。

そこでまずは先輩から連絡先を教えてもらったポンピドゥーのキュビスム専門の学芸員宛てに、展覧会の趣旨を説明し、作品借用の可能性をうかがいたいという内容の手紙を書きました。前回のブログで取り出した2009年10月付けの手紙とは、まさにこの手紙のことです。ところが、いくら待っても返事が来ない!教えられたファックス番号やメールアドレスに何度連絡をとっても、なしのつぶて…(涙)このままでは展覧会の企画自体成立しないため、最終的に共催社のつてで、フランス在住のコーディネーターの方に直接電話で連絡を取っていただきました。私が送った手紙は秘書さんのところでくるくるとたらい回しにされていたようで、学芸員さんの手元にまで届いておらず、またその時は大変お忙しいとのことでした。結局、デュフィについて研究されているグラフィック・アート部門の学芸員クリスティアン・ブリアン氏をご紹介いただき、ようやく面談のアポをとることができたのでした。(ふう〜!)

ブリアン氏との初めての面談はとても緊張しましたが、つたないフランス語での説明を真剣に聞いてくださいました。リヨン美術館の学芸員だったブリアン氏は1999年にリヨンとバルセロナで開催されたデュフィの回顧展を企画され、パリに移られてからもパリ市美の回顧展に協力されるなど、デュフィ研究に取り組まれている数少ない研究者の一人です。またグラフィック・アート専門ということで、デュフィの線描の表現に関心を持ち、デッサンや版画などを重点的に展示したいというこちらの意向に大きく賛同してくださり、今回の展覧会のカタログにもデュフィのデッサン類について論文を寄稿してくださっています。ブリアン氏との最初の面談は無事終了し、最後に「これが最初の一歩ですね。よい展覧会をぜひ実現しましょう」とおっしゃってくださいました。

この時から2013年まで、ブリアン氏とは毎年出張の度に面談を行い、展覧会の準備の進捗を報告したり、内容について相談したりしました。最初はご自身がデュフィのデッサン類を展示する展覧会をフランスで行うために、こちらが希望した作品のいくつかは貸し出せない、と言われていたのですが、その展覧会の計画が頓挫したのでやはり作品を貸し出してあげると言ってくださったり、ラングルというフランスの地方の町で別のデュフィの展覧会を監修された時は、タイミングよく私も展覧会を見に行くことができると伝えると、ラングルの美術館の学芸員さんに連絡を取ってくださったり、展覧会に《電気の精》がないのは残念だから、晩年にリトグラフで複製されデュフィ本人がグアッシュで加筆した作品を展示した方が良いと言って、こちらのリストにない作品を提案してくださったりもしました。そして東京のBunkamuraザ・ミュージアムの開催に合わせてクーリエとして来日されました。展覧会準備の最初から最後までつきあってくださったブリアン氏は、オープニング・セレモニーのときに「おめでとう。良い展覧会になりましたね。」と言って、誰よりも喜んでくださいました。

 

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↑文化村ザ・ミュージアムでの《電気の精》の展示。美しい色彩がリトグラフとグアッシュで再現されています。展覧会にこの作品が出品されるのは初めてとのこと。


(MRM)

現在、東京のBunkamuraザ・ミュージアムで開催中の「デュフィ展」。愛知県美術館では10月9日から開催されます。

 

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▲Bunkamuraザ・ミュージアムの展示会場。鮮やかな青色が南仏を想起させ、今の季節にピッタリ。


この展覧会を当館で開催すると決まってから何年たっただろうと思い、書類をぱらぱらめくったところ、2009年10月付けの、ポンピドゥー・センターの学芸員さん宛てに面談の依頼をする手紙が出てきました。ということは、5年前ですね・・・確かに、ラウル・デュフィという画家の展覧会企画としての出発は5年前ですが、個人的にはもっと長い時間を経たように思います。ここではそのあたりのことから、デュフィという画家の展覧会企画が立ち上がった経緯について書いてみたいと思います。 


当館では開館当初からコレクションにある重要なモダン・マスターの展覧会を開催してきました。たとえば、「パウル・クレーの芸術」(1993年)、「色彩の宇宙 クプカ展」(1994年)、「没後50年 ボナール展」(1997年)、「ミロ1918-1945」(2002年)、近年では「マックス・エルンスト ――フィギュア×スケープ」(2012年)、「クリムト 黄金の騎士をめぐる物語」(2012年)などが挙げられ、これらの展覧会の多くが愛知県美術館の学芸員による独自企画です。私自身は、ボナール展あたりから愛知県美術館を訪れるようになり、さらに開館10周年を記念して開催された「ミロ 1918-1945」の準備中に、当時学生だったのですが、ボランティア、アルバイトとして展覧会のお手伝いをさせていただきました。その時に、海外から作品を運んで日本で展覧会を行うためには、4-5年の準備期間が必要なことを知りました。その準備期間には、海外の美術館に展覧会の趣旨を説明して「どうしてもこの作品が展覧会に必要だ!」という熱い手紙を書き、アポを取って面談に出かける、断られても何度かトライする、それでも断られたら別の作品を提案してみる、などあの手この手で交渉を行い、少しずつ少しずつ形にしていく、そういう過程を着実に経てこそ、展覧会が実現することを目の当たりにしました。学生だった私は展覧会準備をする学芸員の方の仕事を間近で見て、「いつかはこんな展覧会を自分でも実現できる学芸員になれたらいいのにな・・・」などという思いが生まれたのでした。


さて、その後愛知県美術館の学芸員として勤めることになったのですが、勤め始めて間もない頃に、現館長が、当館のコレクションにあるデュフィの作品《サン=タドレスの浜辺》(1906年)について次のようなことを雑談の中で何気なく話されました。

「この作品は、フォーヴ時代の作品だけれど、マティスらドランの原色の激しい色使いとは違って、パステル調の優しい色調が、デュフィらしさを発揮している。後年のデュフィの色彩感覚は、彼が生まれ持った独自のもので、それがこの初期の作品にすでに現われているね。いつかデュフィ展やればいいのに・・・」

きっとご本人は忘れられていると思いますが(笑)、この館長の言葉によってデュフィという画家を強く意識するようになりました。とはいえ、目標が簡単に実現することはなく、この時点から館内で企画案を通すまでが一番大変だったように思います。なにせ、過去にはクレーやらクプカやらボナールやら、モダン・マスターの大規模展覧会を開催してきたプライドと伝統のある愛知県美術館の先輩学芸員の方々が、ついこの間まで学生としてアルバイトをしていた新人学芸員の企画を簡単に了承することなどないわけで・・・。そうこうして日常業務のあわただしさにデュフィ展の企画案も忘れかけていた頃に、きっかけは思いがけないところからコロンとやってきました。

ある展覧会で共同主催をした新聞社の担当者の方と立ち話をしていた時に、どういう文脈かは忘れてしまったのですが、「デュフィっていいよね、いつかは展覧会やりたいよね」という話で盛り上がりました。その話の後、その新聞社の方が上司に話をされ、関心を持っているようだから企画書を起こしてほしいと言われました。良い機会だと思い企画書案を提出したところ、新聞社ではデュフィ展を行いたいという回答がありました。その後館内会議に企画を提案し、新聞社も開催したい希望がある旨を伝え、何とか了解を得ることができました。


この館内会議から5年の歳月を経てようやく実現したこのデュフィの展覧会は、現館長の言葉がきっかけで生まれ、またその言葉は今回の展覧会のコンセプトの基盤にもなっています。鮮やかな色彩が溢れるデュフィ独自の画風がどのように形成されたのか、その過程がご覧いただける構成になっているのではないかと思います。

また、経験の浅い新米学芸員の一企画を受け入れる英断をしてくださった当時のC新聞社文化事業部部長、そして現館長だけでなく、館内会議で展覧会企画が通るまで応援してくださった現副館長などのサポートがあって、ようやくこの展覧会の準備がスタートしたのでした。


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▲展覧会のきっかけとなった愛知県美術館の所蔵作品《サン=タドレスの浜辺》(1906年)


次回は、展覧会準備の過程でフランスの美術館などとどのようなやり取りをしたのか、もう少し具体的な内容をお伝えしたいと思います。

(MRM)